【短歌】たこめし…(毎日新聞・毎日歌壇8月31日・加藤治郎 選)
- 2015/08/31
- 07:44
たこめしたいむましんたこめしたいむましんうたう木下龍也をみていた 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇8月31日・加藤治郎 選)
【たいめしたいむましん、としての記憶の方舟】
ととととライブのときを詠んだもので、木下さんがうたわれていた朗読ラップは「鯛めしタイムマシン(たいめしたいむましん)」だったのですが、そのときわたしは木下さんがうたうのを聴きながら闇のなかでふっと未来彼方に蛸飯が回転しながら燦然と光り輝くのがみえたので、「たこめしたいむましん」にしました。
ときどき思うんだけれど、その場にじぶんが、そのとき・その場所にいたんだっていうことは、《ずれ》として知覚されるんじゃないかとおもうんです。
あのときああだったけれど・でもじぶんはその渦中(まっただなか)にいて《ずれ》としてそれを受容した。
そしてその《ずれ》をかかえながらあのときのことを《ずれ》としておもいだしつつ・おもいのこしつつ、その《ずれ》のことをときどき埋められないずれとしておもいだし語りかえすこと。
過不足なくゆく記憶ではないからこそ、それを語るなにかをいろんなかたちでもちあわせること。
記録ではない、記憶のかたちってそういうことなのかな、ってときどきかんがえるんです。その場にいあわせた当事者性っていうのは、その場にいあわせたからこそ、みずからの身体メディアを介して記憶のズレをともなうことなのかなって。《そこにいた》からこそ、ズレる。記録のかたちではなく、記憶としてそこにいあわせるってそういうことなんじゃないかっておもったんです。そしてそういう記憶の方舟がわたしにとってのタイムマシンなのかな、とも。
《あのときの・そこ》にとどまるのではなく、記憶の慣性の法則が《いまの・ここ》でずれつづけること。すこしの差異をともなって。
語り残すからこそ、ひとは語りつづけることができる、と書いていたのは作家の保坂和志。
慣性の法則はもう壊れたし動いていいよ奈良の大仏 木下龍也
(毎日新聞・毎日歌壇8月31日・加藤治郎 選)
【たいめしたいむましん、としての記憶の方舟】
ととととライブのときを詠んだもので、木下さんがうたわれていた朗読ラップは「鯛めしタイムマシン(たいめしたいむましん)」だったのですが、そのときわたしは木下さんがうたうのを聴きながら闇のなかでふっと未来彼方に蛸飯が回転しながら燦然と光り輝くのがみえたので、「たこめしたいむましん」にしました。
ときどき思うんだけれど、その場にじぶんが、そのとき・その場所にいたんだっていうことは、《ずれ》として知覚されるんじゃないかとおもうんです。
あのときああだったけれど・でもじぶんはその渦中(まっただなか)にいて《ずれ》としてそれを受容した。
そしてその《ずれ》をかかえながらあのときのことを《ずれ》としておもいだしつつ・おもいのこしつつ、その《ずれ》のことをときどき埋められないずれとしておもいだし語りかえすこと。
過不足なくゆく記憶ではないからこそ、それを語るなにかをいろんなかたちでもちあわせること。
記録ではない、記憶のかたちってそういうことなのかな、ってときどきかんがえるんです。その場にいあわせた当事者性っていうのは、その場にいあわせたからこそ、みずからの身体メディアを介して記憶のズレをともなうことなのかなって。《そこにいた》からこそ、ズレる。記録のかたちではなく、記憶としてそこにいあわせるってそういうことなんじゃないかっておもったんです。そしてそういう記憶の方舟がわたしにとってのタイムマシンなのかな、とも。
《あのときの・そこ》にとどまるのではなく、記憶の慣性の法則が《いまの・ここ》でずれつづけること。すこしの差異をともなって。
語り残すからこそ、ひとは語りつづけることができる、と書いていたのは作家の保坂和志。
慣性の法則はもう壊れたし動いていいよ奈良の大仏 木下龍也
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