【感想】水牛の余波かきわけて逢いにゆく 小池正博
- 2015/09/02
- 23:28
水牛の余波かきわけて逢いにゆく 小池正博
【川柳と不倫をめぐって】
きょうのドラマ『花咲舞が黙ってない』は〈不倫〉がテーマだったんですが、〈不倫〉はなぜドラマの主題として尊重されるのか(ちなみに近代文学も『ボヴァリー夫人』や『アンナカレーニナ』『それから』のように〈不倫〉からはじまります。ここらへん詳しく知りたい方は、トニー・ターナー『姦通と文学』を)。
きょう『花咲舞』をみながら考えていたんですが、〈不倫〉が主題になりやすいのは、〈ほんとう〉をめぐる物語になりやすいからだとおもうんですね。
たとえば不倫っていうのはいつでもいまこの愛が〈ほんとう〉なのかどうかが常に問われます。それは〈不倫〉をしてまでつきあっている、のに、それが〈不倫〉なのでつきあうことにしかなりきれない、という形式としての〈不倫〉の両義性があるからです。
ところがこの形式ってけっこう汎用できるんですね。たとえば人生でなにか打ち込んでいるものがあったとする。こんなにしてまで人生を賭けているのに、でもこんなにしかなってない。こういうことと類似的な構造になっている。
で、〈不倫〉のもうひとつ大事な点は、ギャンブル性と、責任性です。ばれれば負債や責任を背負うことになるけれど、ばれないなら背負うことにはならない。ただばれる/ばれないの問題でもない。社会的枠組みのばれる/ばれないとみずからの〈内面〉のこれでいい/よくないもある。
つまりいろんな枠組み、多重化された構造が個的にも社会的にも文化的にも風俗的にも経済的にも実存的にも法的にも文学的にも政治学的にも歴史学的にもお茶の間的にもハイカルチャー的にも倫理学的にも、一気呵成に描けてしまうのが〈不倫〉なんですよ(ちなみに不倫ってどうやって連絡とりあうかが大事なんでメディア論的にも重要なんですよ)。
で、ながい遠回りをして小池さんの句なのですが、川柳で「逢う」っていうことばが使われるのは実はけっこうわたしの知る限り珍しいことだとおもうんです。
川柳って拡散された主体を志向するので、〈逢う〉といったような一義的に拘束されることばを実はきらうんですね(「すき」とか「だいすき」は逆におおいんです。行為と発話の違いという興味深いひとつのテーマですね)。
ただ小池さんの川柳にはこの「逢う」が出てくる。
たてがみを失ってからまた逢おう 小池正博
なんかもそうですね。で、この二句っていうのは、実はちょっといま話した不倫の構造とも似てる二句です(そう〈読める〉という話でこれはひとつのあくまで〈読み〉です。川柳は基本的にさまざまな〈読み〉にひらかれています)。
「余波かきわけて」のバリアーをかいくぐっての恋愛や、「たてがみを失ってから」の責任性をめぐる問題が似ています。
ただ文学的に興味深いのは、動物的比喩がどちらも使われていることです。
水牛とライオンが出てきますよね。この動物的比喩が二句とも出てきている。
ふたりは「逢う」「逢おう」としているわけなんだけれども、実はこの動物的比喩がちょっとした〈迂回〉になっているんじゃないかとおもうんですよ。
三人で逢おうね、とはあんまり言わないので、逢うっていうのはそもそも二者関係のわたしとあなたをめぐる動詞だとおもうんですね。ところがここに第三者として比喩ではあるけれど、〈動物〉が介在している。
この〈動物性〉が「逢う」ということのノイズ、障害、バリアーになっているんじゃないかとおもうんですよ。だから「かきわけ」なければならないし、「たてがみを失」わなければならない。
それってもっというと、比喩が使えるようじゃふたりの距離はまだまだよ、ってことでもあるんじゃないかとおもうんですよ。動物的比喩が使えないくらい、〈動物的〉にならなきゃふたりの〈逢う〉は成就できないよ、って。
ここには奇妙な逆説があります。
動物的比喩を使えるということは人間的であり〈動物的〉ではないということです。
ぎゃくに動物的比喩を捨てた語り手だけが〈動物〉になれる。
ここには捨てる/捨てない/捨てられない問題がでてきています。そして実はこれもまた〈不倫〉をめぐるテーマと類似しているのかなときづくはずです。じぶんがなにを捨てるのか、捨てないのか、捨てられないのか。
もちろん、不倫だけじゃなく、これは生きていくうえでも大切なテーマです。
なぜなら、人生は定型とおなじように有限なのですから。
三十代に悟るべきことでもないが虹と猫とのノイズだぼくは 荻原裕幸
猫は私のところへ、あの生きたかけがえのない者としてやってきて、ある日、私の空間の中へ、入ってくるのだ。この空間の中で、彼は私に出会うことができたのであり、私を見る、いやそれどころか裸でいる私を見ることができたのだ。 デリダ
川柳や連句の実作をしながら、自分がかかわっている言葉の世界がどういう意味をもつのだろうかと考え続けてきた。
短詩型文学はすべてどこかでつながっているから、ほんとうはジャンルによって截然と分けることはできない。けれどもジャンルの中での自己完成という誘惑は強力だから、気をつけていないといつの間にかジャンルに囲い込まれてしまう。連句的な付合の視点によって言葉と言葉の関係性を考えることからはじめて、独立詩型としての川柳における言葉と言葉の関係性に至るまで、私の思考は同じところを堂々巡りしているのかも知れない。 小池正博「あとがき」『蕩尽の文芸』
- 関連記事
-
- 【感想】すぐ泣くすぐ知るすぐ萌える きゅういち (2015/10/29)
- 【感想】心中の生死を分けたコラーゲン 丸山進 (2015/10/19)
- 【感想】まっさきに告げる走ってきたことを 徳永政二 (2015/06/12)
- 【感想】水牛の余波かきわけて逢いにゆく 小池正博 (2015/09/02)
- 【感想】目の前に水晶玉がある逢える 時実新子 (2015/10/01)
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:恋する川柳