【感想】ひとり静『句集 海の鳥・空の魚』-ひとりからふたりへ、ふたりからnりへ-
- 2014/06/16
- 16:26
海の鳥空の魚とわたくしと ひとり静
【主役になれぬパセリの青さの革命】
句集タイトルはひとり静さんの上の句からとられています。
この句にあらわれているように、ひとり静さんの川柳におけるひとつのモチーフとして、〈ねじれ〉としての〈共存〉があるように思うんですね。
「海の鳥」「空の魚」といった〈ねじれ〉は決して否定的にあつかわれるべきものではなく、下五の「わたくしと」にあらわれているようにそれは「わたくし」と並立し、共存できる〈ねじれ〉としてあらわれています。つまりうらをかえせばこんなみかたもできるかもしれません。〈ねじれ〉そのものはすでに「わたくし」の価値観として胚胎しているのだと。そしてその〈ねじれ〉にむしろポジティヴな意味を生成しようとする意志がこの句集にはみられるのではないかと。
たとえばこんな句があります。
その後を考えられぬシンデレラ
シンデレラの話型はハッピー・エンディングを頂点として物語は急速に終息を迎えます。ハッピー・エンディングをくつがえすための後日譚はありません。
しかし、語り手がみている風景は、むしろ存在しなかったはずの「その後」という「シンデレラ」の後日譚です。シンデレラはハッピー・エンディングのその後を考えなかったかもしれないけれど、語り手にとっての風景とは「その後」をも含めて考えなければならないということだと思うんですね。なぜならわたしたちはいくたびシンデレラを生きようとも、「その後」も即座に生きていかなければならないからです。ここでは語り手がもつ〈ねじれ〉の価値観を童話に応用することによって、話型そのものをひっくりかえし、「その後」という生としての新たな時間を逆説的に呼び込んでいるように思います。
強いて言えば歪んでますが丸いです
という句にも「歪み」を「丸み」としてとらえかえしていく〈ねじれ〉からの意味生成のちからをみることができるように思います。ひとり静さんの句は「強いて言えば」にあらわれているように〈対話〉的な話型が選択されることもひとつの特徴だとおもうんですが、それはいちばん上の「わたくしと」のような前提としての〈共存〉のベースがあるからではないかと思うんですね。「ひとり静」さんという「ひとり」という象徴をくつがえして、いや「ひとり」という人称主体がはっきりしているからこその二人称的話態、わたしがだれかとともにいてそのひとに話しかけるような共存の文体がひとり静さんの句のベースにみられるひとつの特徴なのではないかと思います。それはこの句集の句をそのまま借りればこんなふうにもいえるかもしれません。
赤に青を重ねて二人静かです
最後に句集から、わたしが感じたねじれのちからの句をすこし恣意的にあげてみます。
孵化しない卵ばかりを温める
拒否権はあるか眠れる森の美女
まだ迷っているのに開く自動ドア
矢印の通り歩いて道迷う
たんぽぽの綿毛のようなテロリスト
裏側も描いてください世界地図
わたくしに逢うために行くクラス会
真っ直ぐを見ているうちに眠くなる
花束は優しい手錠かも知れぬ
消さなくていいさいろいろあった渦
無色へと向かって生きてゆくんだね
こうみてみると、〈ねじれ〉によって語り手が日常としての世界に対して新たな意味の局面を見出しているのがわかるのではないでしょうか。
語り手がシンデレラや眠り姫に問いかけたように、ストーリー=話筋とはシンプルなものですが、生きていくことの〈いま、ここ〉のプロット=話態とは決してひとすじなわでいくものではありません。生きるとは、そのつどそのつど自分にみあった、目の前の他者にみあった話態を選択し、話しかけ、通じ合い、拒絶され、ひとりになり、ふたりになり、それでも生きていこうとまたあらたな文体としての話態をさぐるいとなみなのではないでしょうか。だからこそ、〈進む〉ということは必然的に生の痛痒をもたらします。それもひとり静さんの句から教えてもらったことです。すなわち、
進化中というのはかゆいものですね ひとり静
【主役になれぬパセリの青さの革命】
句集タイトルはひとり静さんの上の句からとられています。
この句にあらわれているように、ひとり静さんの川柳におけるひとつのモチーフとして、〈ねじれ〉としての〈共存〉があるように思うんですね。
「海の鳥」「空の魚」といった〈ねじれ〉は決して否定的にあつかわれるべきものではなく、下五の「わたくしと」にあらわれているようにそれは「わたくし」と並立し、共存できる〈ねじれ〉としてあらわれています。つまりうらをかえせばこんなみかたもできるかもしれません。〈ねじれ〉そのものはすでに「わたくし」の価値観として胚胎しているのだと。そしてその〈ねじれ〉にむしろポジティヴな意味を生成しようとする意志がこの句集にはみられるのではないかと。
たとえばこんな句があります。
その後を考えられぬシンデレラ
シンデレラの話型はハッピー・エンディングを頂点として物語は急速に終息を迎えます。ハッピー・エンディングをくつがえすための後日譚はありません。
しかし、語り手がみている風景は、むしろ存在しなかったはずの「その後」という「シンデレラ」の後日譚です。シンデレラはハッピー・エンディングのその後を考えなかったかもしれないけれど、語り手にとっての風景とは「その後」をも含めて考えなければならないということだと思うんですね。なぜならわたしたちはいくたびシンデレラを生きようとも、「その後」も即座に生きていかなければならないからです。ここでは語り手がもつ〈ねじれ〉の価値観を童話に応用することによって、話型そのものをひっくりかえし、「その後」という生としての新たな時間を逆説的に呼び込んでいるように思います。
強いて言えば歪んでますが丸いです
という句にも「歪み」を「丸み」としてとらえかえしていく〈ねじれ〉からの意味生成のちからをみることができるように思います。ひとり静さんの句は「強いて言えば」にあらわれているように〈対話〉的な話型が選択されることもひとつの特徴だとおもうんですが、それはいちばん上の「わたくしと」のような前提としての〈共存〉のベースがあるからではないかと思うんですね。「ひとり静」さんという「ひとり」という象徴をくつがえして、いや「ひとり」という人称主体がはっきりしているからこその二人称的話態、わたしがだれかとともにいてそのひとに話しかけるような共存の文体がひとり静さんの句のベースにみられるひとつの特徴なのではないかと思います。それはこの句集の句をそのまま借りればこんなふうにもいえるかもしれません。
赤に青を重ねて二人静かです
最後に句集から、わたしが感じたねじれのちからの句をすこし恣意的にあげてみます。
孵化しない卵ばかりを温める
拒否権はあるか眠れる森の美女
まだ迷っているのに開く自動ドア
矢印の通り歩いて道迷う
たんぽぽの綿毛のようなテロリスト
裏側も描いてください世界地図
わたくしに逢うために行くクラス会
真っ直ぐを見ているうちに眠くなる
花束は優しい手錠かも知れぬ
消さなくていいさいろいろあった渦
無色へと向かって生きてゆくんだね
こうみてみると、〈ねじれ〉によって語り手が日常としての世界に対して新たな意味の局面を見出しているのがわかるのではないでしょうか。
語り手がシンデレラや眠り姫に問いかけたように、ストーリー=話筋とはシンプルなものですが、生きていくことの〈いま、ここ〉のプロット=話態とは決してひとすじなわでいくものではありません。生きるとは、そのつどそのつど自分にみあった、目の前の他者にみあった話態を選択し、話しかけ、通じ合い、拒絶され、ひとりになり、ふたりになり、それでも生きていこうとまたあらたな文体としての話態をさぐるいとなみなのではないでしょうか。だからこそ、〈進む〉ということは必然的に生の痛痒をもたらします。それもひとり静さんの句から教えてもらったことです。すなわち、
進化中というのはかゆいものですね ひとり静
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