【こわい川柳 第八十一話】あたりいちめんびっしりと、毛-根岸川柳-
- 2015/09/07
- 12:00
無才無能の時計に毛が生えている 根岸川柳
体毛のある掌が古事記から覗く 〃
滝──盛大に陰毛がそよぐ 〃
〈時間〉の蝶番(ちょうつがい)がはずれている…… シェイクスピア『ハムレット』
一般的に西洋絵画の伝統において体毛を描かない慣習がある。体毛は情欲と性的な力に結びついている。女性の性的情熱は、鑑賞者に彼がその情欲を支配しているような感覚を抱かせるために最小限におさえる必要がある。 バージャー『イメージ』
【川柳に生え・なびき・そよぐ毛】
さいきんちょっと、毛についてかんがえていました。毛とはいっても、川柳のなかの毛です。
どうも、川柳のなかで毛をおおくみかけるようになった、川柳のなかで毛をひろうようになった、なんだろう毛とおもうようになった。
美容院にいくたびに髪が記号的に毛となってあしもとに落ちていくさまをみ、そしてその毛をみるたびに、つげ義春のマンガ『夜が掴む』のなかで、この切った髪の毛を使ってなにか商売ができないかとふくろにいれて集めていたひとのことを思い出す。どうしたんだろう毛、とおもうわけです。
根岸さんの句には毛が印象的なかたちででてきます。たぶん、主題的に〈毛〉を川柳にひきいれたのは、根岸さんじゃないかなとおもうんです。
毛をこうやって三句並べてみてわかるのは、毛というのは〈境界〉をうちくだく意味生成があるということです。
たとえば「無才無能の時計に毛が生えている」というのは、無能/有能の能力の階層性にかかわらず、毛が生えるという境界線の無化をあらわしている。しかも機械の時計に毛が生えているわけですからここには生命のあるなしの無機/有機の境界も毛がこわしているわけです。
たとえばシェイクスピアの『ハムレット』で、ハムレットは亡霊とであうことで、「生きるべきか/死ぬべきか/殺人者になるべきか/ならざるべきか/あいつをいつ殺すべきか/いま殺すべきでないか」といったような境界線をいったりきたりするようになるわけだけれども、そのような境界を往還させる役割を〈毛〉ももっている。
だから、ハムレットは、毛に出会ってもよかったのだとも、おもうのです。「そこにいるのは誰だ?」「毛です」と。
たとえば死んだ父がハムレットの前に亡霊となってあらわれたということは、時間を超越してあらわれたということですが、そのような時間の超越性は亡霊だけでなく、毛ももっている。根岸さんの二句目の古事記のなかから体毛のある掌がとびだしてくるのがそうですね。毛と時間の3Dになっている。
三句目の滝に陰毛がそよいでいるのも、『ハムレット』で水死するオフィーリア的というか、死んでもなおそよぐ〈毛〉の存在をほうふつとさせます。よく日本人形の髪の毛だけが夜に伸びる怪談が流通していましたが、あれも生/死の境界を毛だけが超えてくるからこわいわけですよね。
こうしてみるとわたしは〈毛〉っていうのは実は〈亡霊〉に近いんじゃないかとおもうんですよ。そしてそれは境界横断としての〈超越性〉としての類似なんじゃないかとおもうんです。過去と未来の時間を超越する時をかけるおじさんの頭髪の毛としての、内側と外側をアクロバティックにひっくりかえす壷のなかにびっしりと生えた毛としての。
未来に帰りたくないと泣く少年の頭がみるみる禿げてゆく夜 穂村弘
びっしりと毛が生えている壷の中 石部明
体毛のある掌が古事記から覗く 〃
滝──盛大に陰毛がそよぐ 〃
〈時間〉の蝶番(ちょうつがい)がはずれている…… シェイクスピア『ハムレット』
一般的に西洋絵画の伝統において体毛を描かない慣習がある。体毛は情欲と性的な力に結びついている。女性の性的情熱は、鑑賞者に彼がその情欲を支配しているような感覚を抱かせるために最小限におさえる必要がある。 バージャー『イメージ』
【川柳に生え・なびき・そよぐ毛】
さいきんちょっと、毛についてかんがえていました。毛とはいっても、川柳のなかの毛です。
どうも、川柳のなかで毛をおおくみかけるようになった、川柳のなかで毛をひろうようになった、なんだろう毛とおもうようになった。
美容院にいくたびに髪が記号的に毛となってあしもとに落ちていくさまをみ、そしてその毛をみるたびに、つげ義春のマンガ『夜が掴む』のなかで、この切った髪の毛を使ってなにか商売ができないかとふくろにいれて集めていたひとのことを思い出す。どうしたんだろう毛、とおもうわけです。
根岸さんの句には毛が印象的なかたちででてきます。たぶん、主題的に〈毛〉を川柳にひきいれたのは、根岸さんじゃないかなとおもうんです。
毛をこうやって三句並べてみてわかるのは、毛というのは〈境界〉をうちくだく意味生成があるということです。
たとえば「無才無能の時計に毛が生えている」というのは、無能/有能の能力の階層性にかかわらず、毛が生えるという境界線の無化をあらわしている。しかも機械の時計に毛が生えているわけですからここには生命のあるなしの無機/有機の境界も毛がこわしているわけです。
たとえばシェイクスピアの『ハムレット』で、ハムレットは亡霊とであうことで、「生きるべきか/死ぬべきか/殺人者になるべきか/ならざるべきか/あいつをいつ殺すべきか/いま殺すべきでないか」といったような境界線をいったりきたりするようになるわけだけれども、そのような境界を往還させる役割を〈毛〉ももっている。
だから、ハムレットは、毛に出会ってもよかったのだとも、おもうのです。「そこにいるのは誰だ?」「毛です」と。
たとえば死んだ父がハムレットの前に亡霊となってあらわれたということは、時間を超越してあらわれたということですが、そのような時間の超越性は亡霊だけでなく、毛ももっている。根岸さんの二句目の古事記のなかから体毛のある掌がとびだしてくるのがそうですね。毛と時間の3Dになっている。
三句目の滝に陰毛がそよいでいるのも、『ハムレット』で水死するオフィーリア的というか、死んでもなおそよぐ〈毛〉の存在をほうふつとさせます。よく日本人形の髪の毛だけが夜に伸びる怪談が流通していましたが、あれも生/死の境界を毛だけが超えてくるからこわいわけですよね。
こうしてみるとわたしは〈毛〉っていうのは実は〈亡霊〉に近いんじゃないかとおもうんですよ。そしてそれは境界横断としての〈超越性〉としての類似なんじゃないかとおもうんです。過去と未来の時間を超越する時をかけるおじさんの頭髪の毛としての、内側と外側をアクロバティックにひっくりかえす壷のなかにびっしりと生えた毛としての。
未来に帰りたくないと泣く少年の頭がみるみる禿げてゆく夜 穂村弘
びっしりと毛が生えている壷の中 石部明
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