【感想】ドラえもんの青を探しにゆきませんか 石田柊馬
- 2015/09/17
- 12:00
ドラえもんの青を探しにゆきませんか 石田柊馬
【ドラえもんクエストのための五つのひみつ道具】
ときどきこの柊馬さんの句にかえってくるというか、もどってゆくんですが、もしこの句に現代川柳性があるのだとしたら、それはどんなところにあるのか。
いくつかパートにわけて、考えてみたいと思います。
【① 接続過剰性(どこでもドア)】
たとえばこの句を「ドラえもんの青を探しにゆきませんか」と言われても、違和感がありません。そんな接続過多にひとつわたしは川柳性ってあるんじゃないかと思うんですよね。
たとえば誰かと電話していて、とつぜん会話のなかに俳句をいったらたぶん相手が、なにか違和をもつとおもうんですよね。こいつなんかとつぜん文語になったとか、形式ばったとか。あるいは短歌でも77のあたりで、なにかおかしいな、型にはまったしゃべりかたをしてるなときづかれそうにおもう。ところが川柳だと、日常会話に挟んでもきづかれないとおもうんですよ。アブナいやつだ、とおもわれるくらいで。頭のチャンネルを変えたような内容が危ないものが多いですから、危ないとはおもわれるだろうけれど、川柳だ! とはきづかれないとおもう。そういう接続過多がひとつ川柳性だとおもう。
【② 主題のズラし(通り抜けフープ)】
で、いま、アブナいっていったんですが、アブナいっていうのはふだんの主題の約束事からズレてるからアブナいって思われるんだとおもうんですよ。たとえば、みんなが信号が青になるかどうか待ってみているときに、信号のつくりだすむしろひかっていないときの暗闇をみているひとがいる。そうするとアブナいわけです。そういう世間の約束事としての主題からズレることを川柳はやる。積極的にズレようとするわけです。あぶないひとになろうと。たとえばこの句なら、誰もうんぬんすることのなかった「ドラえもんの青」を主題化し、それを探しにゆこうといっている。「ドラえもん」を探しにゆこう、という普遍的主題が、〈色〉にズラされている。
【③ ていねいな大胆さ(ほんやくコンニャク)】
で、あぶないんです。あぶないんだけれども、もうひとつ特徴的なのが、ていねいなんです。あぶないけれど、ていねい。ていねいにしゃべってくれるんです(川柳は口語発想なので)。でも、ていねいだけれども、ふてぶてしい。この古畑任三郎や刑事コロンボのような文体が川柳にはあると思うんですよね。「ドラえもんの青を探しにゆきませんか」っていわれたらもちろん素敵だけれども、いやだな、っておもうとおもうんですよ。たとえば深夜に電話がかかってきてそう言われたら、あぶないな、いやだな、って思いますよね。でも、ていねいではあったな、というかすかな理性は感じますよね。かすかな理性を感じるから、なおいっそう、あぶないなとは思うんだけれども。
【④ こわい/あぶない(独裁スイッチ)】
「こわい川柳」というテーマをこのブログでずっと書いているんですが、実は川柳ってどれもこれもが〈こわい〉んですね。こわくないものなんてなくて。それは、77がついて短歌になれば状況がわかるところを77がないために状況が不分明である。で、俳句ならば77がなくても季語があるから状況がわかるんだけれど、川柳にはそれもない。しかも今まで説明してきたような、接続過剰で、ズレてて、あぶない面をもっていますから、〈こわい〉んですよね。ただ〈こわい〉んだけれどもなんでそれが表現《形式》になるかっていうと、それは定型があるからなんだとおもうんです。精神分析的な夢に少し似ていて、いくら無意識がどろどろ出ても、それを超自我みたいな、検閲するお父さんみたいなのが、定型としてきっちり抑圧してくる。だから、
【⑤ 精神分析的抑圧(タケコプター)】
定型があるために、すべての川柳は〈抑圧的〉なんだともおもうんです(ある意味では、精神分析的なんだとも)。空を飛べるかわりに自分の頭(ヘッド)を拘束されないといけない。定型=タケコプターに抑圧されている。抑圧はされているんだけれども、それでも発話したもの。そしてその抑圧によって声がパッケージングされることによって共有化されたもの。それが川柳なんじゃないかとおもうんです。だから《ただ》発話されたのではなくて、《抑圧》をとおして《それでも》「ドラえもんの青を探しにゆきませんか」と発話され《え》たもの。
それが川柳なんじゃないかっておもうんです。
抑圧のそもそもの意味は《意識から追い払うこと》ですが、意識から追い払ってもそれでも発話しえた声。
だから、ゴールはこの発話にこそあるんです。ドラえもんの青を見つけられたしゅんかん、長い旅路の果てに見いだしえたしゅんかんにではなくて、抑圧を通してやっとこの発話ができた、ここまでたどりついたこの瞬間に川柳のゴールがある。この問いかけの形式こそ、ドラえもんの青色そのものなんじゃないかとおもう。
もちろん、定型は進化せず便利にもならずデジタル化もできず文化にもならず解析もされず所有化もできず改造も工事もできず巨大化もしないので、抑圧はすぐにまた、やってくるのだけれど。
くちびるを大黒柱にふさがれる 石田柊馬
【ドラえもんクエストのための五つのひみつ道具】
ときどきこの柊馬さんの句にかえってくるというか、もどってゆくんですが、もしこの句に現代川柳性があるのだとしたら、それはどんなところにあるのか。
いくつかパートにわけて、考えてみたいと思います。
【① 接続過剰性(どこでもドア)】
たとえばこの句を「ドラえもんの青を探しにゆきませんか」と言われても、違和感がありません。そんな接続過多にひとつわたしは川柳性ってあるんじゃないかと思うんですよね。
たとえば誰かと電話していて、とつぜん会話のなかに俳句をいったらたぶん相手が、なにか違和をもつとおもうんですよね。こいつなんかとつぜん文語になったとか、形式ばったとか。あるいは短歌でも77のあたりで、なにかおかしいな、型にはまったしゃべりかたをしてるなときづかれそうにおもう。ところが川柳だと、日常会話に挟んでもきづかれないとおもうんですよ。アブナいやつだ、とおもわれるくらいで。頭のチャンネルを変えたような内容が危ないものが多いですから、危ないとはおもわれるだろうけれど、川柳だ! とはきづかれないとおもう。そういう接続過多がひとつ川柳性だとおもう。
【② 主題のズラし(通り抜けフープ)】
で、いま、アブナいっていったんですが、アブナいっていうのはふだんの主題の約束事からズレてるからアブナいって思われるんだとおもうんですよ。たとえば、みんなが信号が青になるかどうか待ってみているときに、信号のつくりだすむしろひかっていないときの暗闇をみているひとがいる。そうするとアブナいわけです。そういう世間の約束事としての主題からズレることを川柳はやる。積極的にズレようとするわけです。あぶないひとになろうと。たとえばこの句なら、誰もうんぬんすることのなかった「ドラえもんの青」を主題化し、それを探しにゆこうといっている。「ドラえもん」を探しにゆこう、という普遍的主題が、〈色〉にズラされている。
【③ ていねいな大胆さ(ほんやくコンニャク)】
で、あぶないんです。あぶないんだけれども、もうひとつ特徴的なのが、ていねいなんです。あぶないけれど、ていねい。ていねいにしゃべってくれるんです(川柳は口語発想なので)。でも、ていねいだけれども、ふてぶてしい。この古畑任三郎や刑事コロンボのような文体が川柳にはあると思うんですよね。「ドラえもんの青を探しにゆきませんか」っていわれたらもちろん素敵だけれども、いやだな、っておもうとおもうんですよ。たとえば深夜に電話がかかってきてそう言われたら、あぶないな、いやだな、って思いますよね。でも、ていねいではあったな、というかすかな理性は感じますよね。かすかな理性を感じるから、なおいっそう、あぶないなとは思うんだけれども。
【④ こわい/あぶない(独裁スイッチ)】
「こわい川柳」というテーマをこのブログでずっと書いているんですが、実は川柳ってどれもこれもが〈こわい〉んですね。こわくないものなんてなくて。それは、77がついて短歌になれば状況がわかるところを77がないために状況が不分明である。で、俳句ならば77がなくても季語があるから状況がわかるんだけれど、川柳にはそれもない。しかも今まで説明してきたような、接続過剰で、ズレてて、あぶない面をもっていますから、〈こわい〉んですよね。ただ〈こわい〉んだけれどもなんでそれが表現《形式》になるかっていうと、それは定型があるからなんだとおもうんです。精神分析的な夢に少し似ていて、いくら無意識がどろどろ出ても、それを超自我みたいな、検閲するお父さんみたいなのが、定型としてきっちり抑圧してくる。だから、
【⑤ 精神分析的抑圧(タケコプター)】
定型があるために、すべての川柳は〈抑圧的〉なんだともおもうんです(ある意味では、精神分析的なんだとも)。空を飛べるかわりに自分の頭(ヘッド)を拘束されないといけない。定型=タケコプターに抑圧されている。抑圧はされているんだけれども、それでも発話したもの。そしてその抑圧によって声がパッケージングされることによって共有化されたもの。それが川柳なんじゃないかとおもうんです。だから《ただ》発話されたのではなくて、《抑圧》をとおして《それでも》「ドラえもんの青を探しにゆきませんか」と発話され《え》たもの。
それが川柳なんじゃないかっておもうんです。
抑圧のそもそもの意味は《意識から追い払うこと》ですが、意識から追い払ってもそれでも発話しえた声。
だから、ゴールはこの発話にこそあるんです。ドラえもんの青を見つけられたしゅんかん、長い旅路の果てに見いだしえたしゅんかんにではなくて、抑圧を通してやっとこの発話ができた、ここまでたどりついたこの瞬間に川柳のゴールがある。この問いかけの形式こそ、ドラえもんの青色そのものなんじゃないかとおもう。
もちろん、定型は進化せず便利にもならずデジタル化もできず文化にもならず解析もされず所有化もできず改造も工事もできず巨大化もしないので、抑圧はすぐにまた、やってくるのだけれど。
くちびるを大黒柱にふさがれる 石田柊馬
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