【短歌】青空の…(日経新聞・日経歌壇2014/6/15・穂村弘 選)
- 2014/06/16
- 22:01
青空の下の乱歩の広告が「果然断然俄然凄然」 柳本々々
(日経新聞・日経歌壇2014/6/15・穂村弘 選)
【週末になったら、パノラマ島へ行こうよ】
〈写生〉歌である。
ある日、古書店のまえを暑いさなかにふらふらと、江戸川乱歩の「蟲」の柾木愛造のさいごのように這うすんぜんであるいていたのだが、とつぜん古書店の乱歩の広告が眼にとびこんできた。あつい・乱歩・広告。ああそのままでうたになる。めまい。
それですぐにうたにしてみた。そっと、卒倒しながら。
ちなみに乱歩はまだ連載途中である小説の広告のほうが過剰になることがあって、まだミステリーの解決もできていないのに、どうやって解決したらいいんだろ、とノイローゼになることがあったらしい。
でもそれはじつは乱歩自身だけでなく、乱歩の登場人物たちも〈過剰さ〉に意味生成が追いつかず、〈過剰〉としての〈記号〉に敗れる物語だったのではないだろうか。
蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、彼の白い脳髄の襞を無数の群虫がウジャウジャと這いまわった。あらゆるものを食らいつくす、それら微生物の、ムチムチという咀嚼の音が、音なりのように鳴り渡った。
江戸川乱歩「蟲」
「人間椅子」でも、「鏡地獄」でも、「パノラマ島綺譚」でもいいのだけれど、そこにあるのは、椅子のなかに人間が入っていることの仕組みや、ユートピアとしてのパノラマ島の景観ではなくて、それらに相対したときにそれらを割り切るための言説構造をまだだれも手にしたことがないという、〈割り切ることの未知〉としての驚怖ではなかったか。その意味でも、鏡の球体のなかに入ったらいったい〈なに〉がみえるのかというのは象徴的であるように思う。それは〈割り切ることの未知〉の裏返しとしてのイメージ=〈割り切れない既知〉かもしれないからだ。しかし、〈割り切れない既知〉にむきあうということは〈狂う〉しかないということでもある。ひとは、知っているものが言語変換できなくなったときに、ああじぶんはくるっているな、とかんじるのではないだろうか。
最初にわたしはこの乱歩の歌が〈写生〉歌だといったのだけれど、実は〈写生〉というのは、知っているものが言語変換できなくなったまさにその瞬間を切り取るものなのではないかと思っている。だから、なんでもないことがドラマになる。〈写生〉とは、みたままをそのまま写す、というスタティックな行為なのではなくて、みたままがそのままでないことに驚怖することをかろうじてことばに焼き付けることだ。たぶん。
だから、乱歩と写生は、すこし、にている。にているのではないだろうか。だれかに座られつつも、いま、わたしは、椅子のなかから、そう、おもう。
女相撲のような白い巨人が横たわっていた。からだがゴムまりのようにふくれたたために、お化粧の胡粉が無数に亀裂を生じ、その編み目の間から褐色の皮膚が気味悪く覗き、顔も巨大な赤ん坊のようにあどけなくふくれあがっていた。…
…せっぱつまった最後の恋に、あすなきむくろと差し向かいで、気違いのように、泣きわめき、笑い狂った。…
…彼はこの世において、全くの異国人だった。…
…彼にはどうかした拍子で、別の世界に放り出された、たった一匹の陰獣でしかなかった。…
江戸川乱歩「蟲」
シンプソンズ×エドガー・アラン・ポオ「大鴉」のコラボ。
(日経新聞・日経歌壇2014/6/15・穂村弘 選)
【週末になったら、パノラマ島へ行こうよ】
〈写生〉歌である。
ある日、古書店のまえを暑いさなかにふらふらと、江戸川乱歩の「蟲」の柾木愛造のさいごのように這うすんぜんであるいていたのだが、とつぜん古書店の乱歩の広告が眼にとびこんできた。あつい・乱歩・広告。ああそのままでうたになる。めまい。
それですぐにうたにしてみた。そっと、卒倒しながら。
ちなみに乱歩はまだ連載途中である小説の広告のほうが過剰になることがあって、まだミステリーの解決もできていないのに、どうやって解決したらいいんだろ、とノイローゼになることがあったらしい。
でもそれはじつは乱歩自身だけでなく、乱歩の登場人物たちも〈過剰さ〉に意味生成が追いつかず、〈過剰〉としての〈記号〉に敗れる物語だったのではないだろうか。
蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、彼の白い脳髄の襞を無数の群虫がウジャウジャと這いまわった。あらゆるものを食らいつくす、それら微生物の、ムチムチという咀嚼の音が、音なりのように鳴り渡った。
江戸川乱歩「蟲」
「人間椅子」でも、「鏡地獄」でも、「パノラマ島綺譚」でもいいのだけれど、そこにあるのは、椅子のなかに人間が入っていることの仕組みや、ユートピアとしてのパノラマ島の景観ではなくて、それらに相対したときにそれらを割り切るための言説構造をまだだれも手にしたことがないという、〈割り切ることの未知〉としての驚怖ではなかったか。その意味でも、鏡の球体のなかに入ったらいったい〈なに〉がみえるのかというのは象徴的であるように思う。それは〈割り切ることの未知〉の裏返しとしてのイメージ=〈割り切れない既知〉かもしれないからだ。しかし、〈割り切れない既知〉にむきあうということは〈狂う〉しかないということでもある。ひとは、知っているものが言語変換できなくなったときに、ああじぶんはくるっているな、とかんじるのではないだろうか。
最初にわたしはこの乱歩の歌が〈写生〉歌だといったのだけれど、実は〈写生〉というのは、知っているものが言語変換できなくなったまさにその瞬間を切り取るものなのではないかと思っている。だから、なんでもないことがドラマになる。〈写生〉とは、みたままをそのまま写す、というスタティックな行為なのではなくて、みたままがそのままでないことに驚怖することをかろうじてことばに焼き付けることだ。たぶん。
だから、乱歩と写生は、すこし、にている。にているのではないだろうか。だれかに座られつつも、いま、わたしは、椅子のなかから、そう、おもう。
女相撲のような白い巨人が横たわっていた。からだがゴムまりのようにふくれたたために、お化粧の胡粉が無数に亀裂を生じ、その編み目の間から褐色の皮膚が気味悪く覗き、顔も巨大な赤ん坊のようにあどけなくふくれあがっていた。…
…せっぱつまった最後の恋に、あすなきむくろと差し向かいで、気違いのように、泣きわめき、笑い狂った。…
…彼はこの世において、全くの異国人だった。…
…彼にはどうかした拍子で、別の世界に放り出された、たった一匹の陰獣でしかなかった。…
江戸川乱歩「蟲」
シンプソンズ×エドガー・アラン・ポオ「大鴉」のコラボ。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:短歌
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌