【こわい川柳 第八十三話】気の怪-徳長怜-
- 2015/09/24
- 07:00
バス停は武士になる気で立っている 徳長怜
【スピリチュアル文芸としての現代川柳】
こないだの川柳カード大会で「気」が題に出され、丸山進さんが選者をつとめられていたんですが、川柳においてこの「気」っていうのはひとつキーワードになるんじゃないかなっておもってるんです。
たとえばです。丸山さんの、
折れてくれ折れ線グラフなのだから 丸山進
この句は「折れ線グラフ」が「折れ」ない〈気〉になっているわけです。語り手は「折れてくれ」という〈気〉になっている。この〈気〉と〈気〉のぶつかりあいやすれちがいから意味が噴き出してくる。
もっというとこの「折れ線グラフなのだから」の「なのだから」という言辞にも注目したい。語り手は「折れ線グラフ」は「折れ線グラフ」ふるまってくれという〈気〉でいます。ところが「折れ線グラフ」は「折れ線グラフ」として生きるつもりや〈気〉もちはない。そういう〈気〉ぶんじゃないわけです。まっすぐに生きたい〈気〉ぶんになっている。
気が重層的に交錯している句です。
で、徳長さんの句にかえると、ここにも〈気〉の重層性がみえてきます。
まず、「バス停」は「武士になる気で立ってい」ます。これは「バス停」のやる〈気〉であり、〈気〉もちです。ところが、この助詞「は」が大事なのではないかとおもうのです。《「バス停は」もちろんそういう気持ちで立っているかもしれないけれど実際は》という、ここには《対比》の意味合いがさりげなく仕組みこまれています。「バス停は」そういう気持ちでいるかもしれない。でも、ほんとう《は》いくらそういう気でいたってなれないかもしれない。それは語り手の《気》もちです。
こんなふうに川柳においては、言辞(ことばの使い方)や助辞(助詞のつかいかた)によって、《気》が重ねられ、すれちがい、ぶつかりあう場面そのものが描かれていることが多いようにおもうのです。
その意味で、川柳の表現者たちをこんなふうにいうこともできると思います。
川柳の表現者たちは、〈気〉の使い手たちなのである、と。
だから〈気〉でかき消すこともできる(めだっちゃうけれど)。
消したので余計目立ってしまいます 徳長怜
【スピリチュアル文芸としての現代川柳】
こないだの川柳カード大会で「気」が題に出され、丸山進さんが選者をつとめられていたんですが、川柳においてこの「気」っていうのはひとつキーワードになるんじゃないかなっておもってるんです。
たとえばです。丸山さんの、
折れてくれ折れ線グラフなのだから 丸山進
この句は「折れ線グラフ」が「折れ」ない〈気〉になっているわけです。語り手は「折れてくれ」という〈気〉になっている。この〈気〉と〈気〉のぶつかりあいやすれちがいから意味が噴き出してくる。
もっというとこの「折れ線グラフなのだから」の「なのだから」という言辞にも注目したい。語り手は「折れ線グラフ」は「折れ線グラフ」ふるまってくれという〈気〉でいます。ところが「折れ線グラフ」は「折れ線グラフ」として生きるつもりや〈気〉もちはない。そういう〈気〉ぶんじゃないわけです。まっすぐに生きたい〈気〉ぶんになっている。
気が重層的に交錯している句です。
で、徳長さんの句にかえると、ここにも〈気〉の重層性がみえてきます。
まず、「バス停」は「武士になる気で立ってい」ます。これは「バス停」のやる〈気〉であり、〈気〉もちです。ところが、この助詞「は」が大事なのではないかとおもうのです。《「バス停は」もちろんそういう気持ちで立っているかもしれないけれど実際は》という、ここには《対比》の意味合いがさりげなく仕組みこまれています。「バス停は」そういう気持ちでいるかもしれない。でも、ほんとう《は》いくらそういう気でいたってなれないかもしれない。それは語り手の《気》もちです。
こんなふうに川柳においては、言辞(ことばの使い方)や助辞(助詞のつかいかた)によって、《気》が重ねられ、すれちがい、ぶつかりあう場面そのものが描かれていることが多いようにおもうのです。
その意味で、川柳の表現者たちをこんなふうにいうこともできると思います。
川柳の表現者たちは、〈気〉の使い手たちなのである、と。
だから〈気〉でかき消すこともできる(めだっちゃうけれど)。
消したので余計目立ってしまいます 徳長怜
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