【こわい川柳 第八十四話】多すぎる奇蹟-新家完司-
- 2015/09/24
- 11:47
奇跡だと思いませんかウォシュレット 新家完司
プルーストにとって、人間の内面世界は私たちを驚嘆させてやまないひとつの無限、ひとつの奇跡でした。 クンデラ『小説の精神』
【奇跡は毎日起こってる】
前の記事で川柳と〈気〉をめぐる話をしたんですが、川柳には〈奇跡〉も多いんですよね。そんなに起こらないのが奇跡なんだけれども、川柳のなかでは奇跡はたびたび起こる。そう考えるとやっぱりどこかで川柳はスピリチュアル文芸のような気がしないでもない。そういう超越的志向性を川柳はふしぎにも持っている。
ちょっと川柳と奇跡をめぐる句をみてみましょう。
裏庭でそっと手渡される奇跡 矢島玖美子
遠雷や会わない奇跡会う奇跡 山口亜都子
トイレで出会う奇跡、裏庭で手渡される奇跡、会わない/会う(という二項対立を弁証法的にふくみもつ)奇跡。
川柳においてはこの世界のいたるところに奇跡はあります。
なぜ、川柳は奇跡と親和性が高いのか。
これはひとつの仮説なんですが、実は奇跡というのは川柳にとっては意味内容ではなく、形式の方にあるのではないかとおもうのです。つまり、定型そのものの表出こそが《奇跡》なのではないか。
575で、世界の、日常の、生活の、生きることのイヴェントをすくいとることができてしまった。575定型でパッケージングすることができてしまった。そうした定型におさめられたことの方が《奇跡》なのではないか。
だから実は川柳においてはその一句一句が奇跡的なのであり、したがってその内実のなかで出てくる奇跡はむしろ〈ありふれた奇跡〉なのではないか。
だから亜都子さんの句のようにどのどちらをも奇跡といえるのです。定型ならば。
出会うのも奇跡だし、出会わないのも奇跡です。なぜならそれはもう定型という器の奇跡のなかにあるものなのですから。
じゃあ、短歌ではどんなかたちで奇跡がでてくるのか。奇跡は亜都子さんの句のように二項対立をあわせもつ〈スペシャル〉なカテゴリーになるのか。
なる。
奇蹟的なきみの料理だ。湯気のない。とてもきれいだ。すごくまずいよ。 柳谷あゆみ
プルーストにとって、人間の内面世界は私たちを驚嘆させてやまないひとつの無限、ひとつの奇跡でした。 クンデラ『小説の精神』
【奇跡は毎日起こってる】
前の記事で川柳と〈気〉をめぐる話をしたんですが、川柳には〈奇跡〉も多いんですよね。そんなに起こらないのが奇跡なんだけれども、川柳のなかでは奇跡はたびたび起こる。そう考えるとやっぱりどこかで川柳はスピリチュアル文芸のような気がしないでもない。そういう超越的志向性を川柳はふしぎにも持っている。
ちょっと川柳と奇跡をめぐる句をみてみましょう。
裏庭でそっと手渡される奇跡 矢島玖美子
遠雷や会わない奇跡会う奇跡 山口亜都子
トイレで出会う奇跡、裏庭で手渡される奇跡、会わない/会う(という二項対立を弁証法的にふくみもつ)奇跡。
川柳においてはこの世界のいたるところに奇跡はあります。
なぜ、川柳は奇跡と親和性が高いのか。
これはひとつの仮説なんですが、実は奇跡というのは川柳にとっては意味内容ではなく、形式の方にあるのではないかとおもうのです。つまり、定型そのものの表出こそが《奇跡》なのではないか。
575で、世界の、日常の、生活の、生きることのイヴェントをすくいとることができてしまった。575定型でパッケージングすることができてしまった。そうした定型におさめられたことの方が《奇跡》なのではないか。
だから実は川柳においてはその一句一句が奇跡的なのであり、したがってその内実のなかで出てくる奇跡はむしろ〈ありふれた奇跡〉なのではないか。
だから亜都子さんの句のようにどのどちらをも奇跡といえるのです。定型ならば。
出会うのも奇跡だし、出会わないのも奇跡です。なぜならそれはもう定型という器の奇跡のなかにあるものなのですから。
じゃあ、短歌ではどんなかたちで奇跡がでてくるのか。奇跡は亜都子さんの句のように二項対立をあわせもつ〈スペシャル〉なカテゴリーになるのか。
なる。
奇蹟的なきみの料理だ。湯気のない。とてもきれいだ。すごくまずいよ。 柳谷あゆみ
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