【感想】猫パンチしかないなんて秋の空 ひとり静
- 2015/09/26
- 01:11
猫パンチしかないなんて秋の空 ひとり静
【川柳とキャラクター化をめぐる】
川柳のよいところってこういう読解するには難しい句がやわらかくすっとはいってくるところだとおもうんですよ。
一見やわらかい句なんだけれども、この句をどう読めばいいんだろうと考えたときに、読みのパンチの出し方がとてもむずかしい句、でも難解ではない句、そうしたレベルの両極端を内包してるのが川柳のおもしろさだともおもうんです。
で、猫パンチについてちょっとかんがえてみたいんですが、「猫パンチ」って考えてみると独特のことばというか〈造語〉だなあとおもうんです。猫パンチとはよくいいますが、犬パンチとか熊パンチとか鹿パンチとは言わないし、決定的にちがうわけです。
なんでだろう、っておもいますよね。
そこには、肉球によってマイルドなバランスのとれた非暴力性がある。パンチだけれども非暴力なんです。ガンジーもこのパンチなら許してくれたんじゃないかっていう。猫パンチなら。
たとえば、熊パンチだと「熊パンチ」という言葉以上のちからや暴力性がでてしまう。ぱあん、とわたしたちはとんでいくでしょう。いっぱつで。熊パンチというのは、パンチの強化にしかならないわけですね。
でも猫パンチはちがう。猫パンチっていうのは、パンチにならないパンチなんですよね。肉球なのでこぶしにならない。こぶしにならないからパンチにならない。ゼロ・パワー、ゼロ・エネルギーなんです。
だから、猫パンチっていうのはパンチの非力化=無力化なんですね。パンチの意味合いをなくすのが猫パンチ。
そういう猫っていうかんむりは、ことばを無力化させるちからがある。無力としての力が。
猫耳もそうですね。耳を非力化=無力化して、やわらかいかんじにするのが猫耳です。本来の本質的機能をうばうわけです。猫という頭辞が。耳を聴力からずらして、キャラクターに転換するわけです。
猫パンチもそうですね。パンチを破壊力から転換して、キャラクターとしてのパンチに変える。エネルギーをゼロ化するとキャラクターになるんだという発見。
だから、わたしはね、こうおもうんですよ。
このひとり静さんの句にはたしかに「猫パンチしかない」。でもそれは、あふれる無力なんですよ。転換のエネルギーによってこの句には非力としてのキャラクター性があふれている。転換のちからがあふれている。
秋の空は、飽きの空として変わりやすいことをたとえたりするけれど、猫というかんむりにも変化の、転換のちからがある。
「猫パンチしかないなんて」と悲嘆にくれてはいるのに、でと「猫パンチ」と発話できたことによってその無力の声からあふれてくるものがある。
そういう無力をキャラクター化していくちからが川柳にはあるように、おもう。
たとえば、それは、「ポ」だっていいわけですよ。
ポが、キャラクター化するしゅんかんを、えがく。
おじゃまにはならないポだと思います ひとり静
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